「先生」に対する見解
先生の「仕事」 と 先生の「本業」 とは
別のような気がする。
そんな風に思うようになったのは
私が本格的に
「先生」と言う仕事をやっていこうと
心に決めた頃から。
先生と言う仕事は
不思議なもんだ。
「仕事」が終わらないと
「本業」までたどりつかない。
先生を「その気」にさせるのは
間違いなく「教わる側」
よく私が言うのは
何かを学びたいと思ったら
できるだけ
学びたい人のそばにいる事。
その人と同じ空気をたくさん吸う。
先生と呼ばれる立場の人は
多分どんな種類の先生でも
仕事にしている分
「教える責任」みたいなものが発生して
解り易くいえば
「授業料分」教えるという事
とかね。
お月謝を頂くんだから
頂いてる全ての生徒さんに
平等に教える
まぁ、そんな責任が発生する。
そして
そうで無ければならないのよ。
どの辺までが平等かは
その先生や団体で変わると思うけど。
それは、私も自覚してるけど、
でもね
これは「お仕事」で
「本業」はそこじゃないんだな、コレ。
どっちかって言うと
一対一の時の方が
他の生徒さんに遠慮する事なく話しやすい。
同じ事を教えるにも
生徒さんが変われば
その人の得意不得意に合わせて
教える手順がかわる。
生徒によっては
混乱を引き起こすので
教えなくてもいいこともある。
だから
たくさんの人数の中で
その人に向けてだけの発言は
控えているのである。
だから私が思うに
「教える」と言う事において
平等と言う言葉は当てはまらない。
「ま、余談だけど」
とか
「ま、特別ね」
とか
はたまた
「あ…言っちゃった(笑)」とか
そんなところに
いろんな事が隠されている。
先生は神でも、仏でもない。
煩悩渦巻く
一人の人間である。
かわいい生徒とか
ぬきんでた才能を持った人とかは
何とか力になりたいのだ。
ところが世の中
面倒なことに
「平等に教えて下さい」 みたいなことになる。
だから、
どこの先生も
「平等」に徹するから
「仕事」にとどまるのだろう。
ただ、
先生の本能は
その「仕事」を超えたその先に
あるのである。
そして
本能が渦巻き
教えたくなる生徒とは
教えたくなった環境が整った時に
不思議とそばにいるのである。
だからといって
「平等ではない」と言う観点からは
外れるのだ。
だって、
ソコ「授業外」だから。
そしてそこに
いなきゃいけない訳でもない。
「授業外」だから。
ただ、
話した時にそこにいただけ。
ラッキー♪
ってな具合である。
人より伸びる人とか
人よりたくさん覚える人は
教わる時間以外も
教わろうとしているのある。
そして大抵
そういう人たちは
そんな難しいことを考えてはいない。
自分が楽しくて
勝手に合流したり
遊びにくるのである。
「たくさん行けば教えてもらえる」
と
学ぶ気満々の
『アピールだけ』 の場合
先生にはバレるので
そういう話にならないのである。
不思議な「先生」の本能である。
必要な人のところに
必要な事を届けたくて
そのチャンスをうかがっているのが
「先生」である。
うちの教室は
時間外の出入りが自由になっている。
自分のクラスじゃないけど
お茶だけ飲みにとか
○○さんに会いにきたとか
△△展見てきてよかったからなど
クラスも、生徒さんの交流も自由だ。
その中から
たくさんの楽しいことが
連鎖のように起こることで
学ぶことが増えるのだと思う。
自分の先生に
物足りないと感じてる人は
是非この
「先生の本能」を
突き動かすことを試してみよう。
やる気のなかった先生が
本能をくすぐられて
教室の編成までも
まるっきり変えてしまった先生の
先生側の見解である。












