現在を生きているのに「未来」を生きていた。3
『将来の為』
この言葉はきっと
呪となって私を縛ったのだろう。

私の書く文章の中で
時折出てくる「呪」という言葉は
「のろい」と読むのではなく
「じゅ」と読みます。
意味は同じ事ですが
ひとつ以下よろしくです。
さて、
『囚われる』と
本来の行き先を見失う。
将来という言葉が
当時の私には重すぎて
『目的』が「将来」になっていた。
【現在を生きながら未来を生きていた。】
「この不思議な状態」に気付いてしまうと
結構きつい。
よく解らないけど
なんか違う事だけは解るから
結果
当時の私にでも出来た
「逃げ出した」という方法を取った事となる。
「現在」の自分の行動全てが
「未来」を考えた上での行動。
ちょっと
話を噛み砕いて見ると
将来や未来を「見て」生きるという事は
将来に「〇〇になりたい」など
自分自身で目標があった上で
「〇〇になりたいから◇◇を頑張る。」
とか
「〇〇を買いたいから◇◇円貯金する。」
といったような
『将来』の目的達成のために
今を頑張ったりすることが
将来や未来を「見て」生きる
という言葉になるのだと思う。
よく解らない「将来」に向かって
よく解らないまま努力する事は
『現在』を見失う事になう可能性があるということ。
よく解らない「将来」に
『囚われて』生きる事になりかねない。
自分の中では
「よく解らなないけど将来の為」
頑張っているつもりが
よく解らない「将来」に違和感を感じても
それを打ち消すように
『よく解らないけど頑張っておけば将来の為になるんだ』
として
「将来」と「頑張る」がすり替わってしまう。
そして
一度そこに気付いてしまうと
自分に対しての
『違和感がよく解らない分』
心に圧し掛かってくる。
【自分は何やってんだ?】
そして
それは「不安」や「焦り」を生んで
「恐怖」や「嫉妬」
時には「憎悪」として育ってゆき
ありとあらゆる事に影響を及ぼしてゆく…
「将来」何になりたいかなど
当時の私は
決まっていなかったし
解ってもいなかった。
『好きな事をやって居たい』
これは確かだった。
ただ、その時点での
好きな事=油絵では
食べていけないと言われてしまって
『好きな事=油絵以外で将来を考える』
となると解らない。
解らないだらけだ。
だから、
漠然と『将来』が
圧し掛かったのだ。
そして
よく解らないまま
事あるたびに
『今、やりたいのは◇◇だけど
将来の事を思えば〇〇をやる。』
という
選択が始まった。
『よくわかんない』
そして
それらをまだ上手く説明できないのに
何かが違うから
極端な方法に打って出る。
こうして自我が芽生えていくんだと
現在になってみると解る。
屈折していた子だったというのも
よく解る。
…変ってる事には
今もあまり変わりはないのだろうけど(笑)
この根底で
何一つ解決してないから
時間が進む度
疑問が増える一方で
都度
日々のスピードに任せて
うやむやに自分を納得させて
さらに先に進む。
進めば進む程
その違和感は「ひずみ」となって
ねずみ算式に増殖して
心に還ってくる。
これを繰り返してゆくと
「将来」何のためにどうするのか
解らないまま
気付けば【将来】という言葉に
囚われて
『今が楽しく無い』生活を
エンドレスで送っていく事になる。
そして
私は『囚われた』………「将来」に
囚われている事すら
気付かずに
追いつかない将来の為に
日々、
楽しくない生活を積み上げてゆくのだ。
『負』の骨頂だ。
今だから
その事に気付くのだが
この理屈って
つまり
どこまで行っても
【『将来』には追い着かないのだ】
お気付きだろう。
【将来】という言葉に
囚われて『今が楽しく無い』生活を
将来の為に我慢して
エンドレスで送っていく事とは
目標になる物が定まっていないから
どこまで行っても
達成感は味わえず
リセットされるものでもないから
「頑張ろう」と決めたら
どもまで頑張る事になり
一年経っても『将来の為』と二年先を見て
二年経っても『将来』は三年後に在って
どこまでも
終着点が無いのだ…。
ま、そんなことは
中学生の時点の私には
解るはずもなく
こういう状態を
未来に『囚われて』
気付かなかったまま生きた自分
だと
現在の私は解釈しているのだ。
その後
私は様々なタイミングで
心労というか苦悩というか
それらを経て
お陰様で
今は「未来」を見据えて
『現在』を生きる事が出来ている。
【言葉を発する】
と
いう事は言霊となる。
言霊は
特別な呪文でなくても
時と場合によっては
呪となり
自分で自分を
縛る事も出来きてしまうようだ…












